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巳年に入り、巳年にまた入るー私の環境学ー 【平山奈央子】

2014年05月15日(木) 10:16更新

ただいま…県大

 2001年(巳年)4月、私は滋賀県立大学 環境科学部 環境計画学科 環境社会計画専攻(現環境政策・計画学科)へ入学しました。高校卒業後、1年間浪人している間に医療分野から今後課題が多く出てくるであろう環境分野へ興味が変わり、勉強したいと思ったように記憶しています。学部卒業後、続けて修士・博士課程へ進学し、2010年11月に本学で博士号を取得しました。その後、他大学にすこし修行に出て、2013年(巳年)9月末、環境政策・計画学科に戻ってきました。これまで進めてきた琵琶湖の研究や社会活動を続けるため、かねてからの願いがかなった…と感じているところです。学生時代にお世話になった先生方は少しぎこちない様子の時もありますが…。
 私の20代は、毎日のように湖を眺め、琵琶湖の環境保全のための地域の活動をしたり、同じく研究をしたり、琵琶湖一色だったように思います。30代に入ってからは琵琶湖だけではなく、片足を琵琶湖に突っ込みながら、もう片足をいろいろなフィールドにのばして修行をしています。新しいことを知る楽しさとそれらと自分がやってきたことをつなげる作業は創造的で面白いです。しかし、時々ふと自分が何屋さんか…わからなくなるので、これまでを振り返り、今の時点で大事にしていることを書き留めておこうと思います。

湖との出会い、国際会議にて

 県大に入学して少し慣れてきたころ、今思えばとても信用できる先輩ではなかったのですが、その人から「英語を話したくないか?」と声をかけられ、なぜかのってしまいました。今思えば、これが、私が琵琶湖にどっぷり関わることになったきっかけだったと思います。声をかけられた数か月後の2001年11月に滋賀県で第9回世界湖沼会議が開催されました。先の大変あやしげな勧誘は、その会議の分科会の一つとして、学生版の湖沼会議をする学生セッションプロジェクトという活動があり、そのメンバーにならないか、ということでした。具体的に何をしたかというと、世界各国から湖を研究する学生を招へいし、会議の準備、運営、参加と合わせて、招へい学生の日常的なお世話をしました。英語ができなかったのに、どうやって乗り切れたのかいまだに思い出せません。初めて覚えた環境っぽい単語は「浚渫する(dredge)」と少しマニアックなものでした。会議開催中は毎日なにかに追われ、目が回っていたのですが、ふと海外の学生から「琵琶湖って何が問題なの?」と聞かれ、大学入学したて、兵庫県から滋賀県に移り住んだばかりの私は、はずかしながら海外の学生らと全く同じ印象でした。琵琶湖ってきれいに見えるけど何が問題なのか…。今思えば琵琶湖総合開発事業が終了して開発から保全に移る、琵琶湖の環境にとって重要な転換の時期だったのだと思います。ただ、当時の私には琵琶湖のことをうまく説明できない気持ち悪さだけが残りました。この気持ちを基に少し勉強し始めました。学内の講義だけではなくできるだけ外の講演や地域の活動に出かけました。学生の頃、一番お金を使ったのは交通費だと思います。自分が学ぶと同時に、わかったことを小さい子供に伝える活動を他大学の学生と一緒に始めました。ヨシの問題について考えるために、ヨシ笛を作るワークショップをしたり、水質について知るためにパックテストをしてみたり…とにかく「琵琶湖」に関することは自分の目で見て、体感したいと思い外に出て行きました。活動をする中で、地域で水環境保全の活動をしている人たちと話をする機会がありました。「昔の琵琶湖はなぁ…」という話の中で、今よりも昔の方がよかった、という声を多く聴きました。

琵琶湖の2つ不思議

 活動を始めて2年くらい経って、卒業研究のテーマを考え始めていた時に琵琶湖総合保全整備計画(滋賀県が2000年に策定)に出会いました。このころから私の中に2つの“?”が芽生え始めました。1つは、「昔の琵琶湖ってそんなにきれいだったのかな?」、もう1つは「計画書の中に、行政は事業者・地域住民と連携して計画をすすめるべし、って書いているけど、計画自体が知られてないのに本当にできるのかな?」ということです。
1つ目はやっぱり気になったので修士研究で調べることにしました。大阪の浄水場で古くから測定されていた琵琶湖の水質結果を基に、1928年以降のCODの値を推定したところ、数値としては今とほとんど変わりませんでした。地域の人たちが良かった、と記憶する昔の琵琶湖と今の琵琶湖、CODの値としてはさほど違いがないことがわかりました。これを受けてまた新たな“?”が出てきました。地域の人たちは、琵琶湖に何を求めているのだろうか?何をもって昔をよかったといっているのだろうか?この“?”は最近なんとなくココロでわかってきました。もちろん話し手によってさまざまではありますが…。
 はじめに紹介した2つ目の“?”に関してはまだ答えが出ていません。誤解をおそれずに言うと、琵琶湖の保全のために連携が必要だということは今や当たり前で、県の新しい制度や取組みなども始まっています。しかしながら、さほど連携の在り方が変わっていない、というのがここ10年の私の印象です。レジームシフトのようにいつか突然その効果があらわれるのかもしれませんが…。そのため、第2期琵琶湖総合保全整備計画を多主体の連携によってうまく進めるための「マザーレイクフォーラム」に関わり、その連携の在り方について研究を進めているところです。

行政と地域住民の連携の話

 上記の連携にも関連して、これまで研究や活動を通して様々な立場の人たちと話をするなかで、主張や想いが異なる人と人のコミュニケーションをコーディネートする必要があるのではないか、と感じていました。同様の趣旨で国土交通省では1997年の河川法の改正に伴って「河川レンジャー制度」を設けました。河川レンジャーは、河川行政と地域住民をつなぐ役目を担います。私はこの制度の運用当初から琵琶湖の河川レンジャーとして約8年間活動してきました。この活動を実践する中で、行政と対話をする際の作法や主張の伝え方、事業に対する意見の切り込み方など、私なりの心得が少しできてきた様に思います。

私にとっての仕事

 お金を払って研究(勉強)する立場から、お金をもらって研究できる環境を得たことは、私にとって大きな一歩です。研究は自分の興味関心でいわば半分趣味のようなものですが、そこに公共性や新規性が伴えば、また、得られた知見を書き貯めれば研究になると思っています。大学の仕事は研究だけではなく、もちろん教育も重要で、かわいい後輩たちを甘やかすことなくビシビシと育てる…ということではなく、できるだけ同じ目線で議論をし、一緒に成長したいと思っています。私は大学で働きたいと強く思っていたわけではありませんでしたが、働き始めて自分に合っている仕事だと感じています。なによりも授業をはじめ学生とやり取りが、研究やその他の仕事に良い影響を与えています。いつも夢を探して生きているので、もしかしたら今後新たな方向性が見つかるかもしれませんが、今のところ、私にはとっても心地よいライフワークです。

研究の第一歩、レールの話

 研究の動機は、ものごとに疑問を持ち、それを突き詰めたい、と思うから始まるのでしょうが、私がいつからそんな風になったのかな…と考えてみました。はっきりは思い出せないのですが小さいころのことで一つだけ覚えていることがありました。
小学校低学年の頃でしょうか、ホームで電車を待っていた時にふと違和感がよぎりました。ホームから見るレールは出っ張っている(地面にレールがのっている)のに、踏切のレールはなぜへこんでいるのか。私の親はタイヤを見てみたら?と言ったんだと思います。妹と二人で、停まっている電車を何度も正面から覗き込んで車輪の形を自分の目で確認して、スッキリしたことを覚えています。こういうたぐいの疑問は今でもたくさんあって(環境とは全く関係ないことがほとんどですが)、ものごとに疑問を持つ好奇心をいつも忘れずに過ごしたいと思っています。

違う分野との共同研究

 連携やコミュニケーションの方法論に関心を持って研究していると他の分野でも議論が広がることがわかってきました。これまで関わった(っている)ものとしては、自閉症の人が住みやすいまちづくりのために福祉・教育・医療機関の連携をどう進めるか、農業用水管理に関する農民や農業組合、行政のコミュニケーションはどうすればよいか、バイオマス循環に関する企業や行政の連携方法など、どれも興味深く関わらせてもらっています。うろうろしているようでどれも楽しく、研究の内容としても、一緒に働く先生方の研究スタイルや考え方など、新たな発見がたくさんあります。

結局、何屋さんか…

 これまでを振り返って、今のところ大事なキーワードとして残るのは「水(とくにたまり水)」と「コミュニケーションのあり方」であることに気付きました。感覚的なことでうまく説明できないのですが、海でも川でもなく、湖のやさしい波の音が好きで湖の研究をしています。大好きな湖の思い出には、いつもその地域の人や文化を垣間見てきました。中国武漢の小さい湖で休憩していた時に聞いた中国っぽい楽器の音色、佐鳴湖のほとりで知らないおじさんと話したウナギの話、インドネシアのたまり水で近所の人と一緒に釣りをしたこと…。
 30年後、“湖”に“女”と書いて「湖女(こじょ)のすすめ」なんて書いてみるのも面白いかもしれない、などと夢を膨らませながら・・・

(『環境科学部 年報 第18号』 2014年3月31日)