「何が専門なのですか?」-私の環境学ー 【近藤隆二郎】
2014年05月15日(木) 09:47更新
もとは自然保護派であった
よく「何が専門なのですか?」と聞かれることがあり、答えに難渋することがある。また、なぜだから知らないが「イベント屋」というレッテルも貼られているという曲解も相当あるようである。なんとか上手にかつ一瞬で説明するすべを磨かなければならないのだが、「環境社会システム」という学問上の言葉は「環境」と「社会」と「システム」に分解されるだけで、何も伝えない。仕方なく、自分自身のたどってきた道を紹介することが、すなわち今自分がある専門そのものを紹介することへの近道になるのかもしれない。
大学志望を決定するときに、工学の中にも自然要素や人の手の必要性を説いていた環境工学科を選択した。講義の良さを理解する以前に、あまりに無反応な周囲の学生に嫌気がさし、ほとんど大学に行かずにアジアへ井戸を贈る運動をしていたNGOに出入りして、多種多様な人たちと毎週のように飲み歩いていた。当初は、国際協力への関心というよりは、むしろそのNGOが片手間に開始していた自然保護団体の事務局などを担当し、講演会や都会の子供を山村にあずかって自然学習体験を進めるサマースクールなどの実施を担当していた。あくまでも、自然保護的な考えが中心であったように思う。
インドでの体験
同じ事務所であったために、ふと魔?がさして、インドにおいて井戸を掘る若者主体のNGO主催ワークキャンプに1回生の春に参加してみた。初めての海外旅行で、かつ実はワークキャンプとしても過酷なフィールドで、中央インドの農村に入り込み、農家に寝起きして井戸掘りする毎日であった。十分な食料もなく痩せていくあるいは倒れて寝込むメンバーを見ながら、何のためにこんなところで井戸を掘っているのか―先進国の自己欺瞞ではないのか―という疑問は、3年続けて参加してようやく現地スタッフから納得する回答を引き出すことができた。そのこと自体はあまり本論とは関係ないので省略するが、むしろインドという国は、環境という面からみても驚異的にインパクトのある国であった。
「ゴミはゴミ箱に捨てなければならない」といった無自覚に埋め込まれていたルールが、インドでは無意味であった。つまり、誰も彼もがゴミをそのあたりにポイポイと捨てるのである。厳格な?日本から見れば異様な風景であり、なんて国だここは、と思ったが、よくよく見ていると、根本的に違うのである。なぜなら、汽車で買うスナックは葉や殻などに入って売られ、またチャイは素焼きのカップで飲む。それらは、中身が消費された後は、ポイポイと汽車の窓から消えていく。あるいは、素焼きのカップはパン!パン!と地面に投げつけられて粉々にされている(これは快感であった)。つまりは、すぐ分解されるのである(近年では、インドでもプラスティック製品が蔓延しているので、むしろ問題が大きい)。また、道ばたの食堂で食べるランチは、バナナの葉に盛られて出てくる。手でむしゃむしゃと食べた後、どうするかというと、店の外にぽいっと捨てる。すると、待ちかまえていた野良牛さん(犬ではない)が美味しそうに食べる。そして牛糞は大切な燃料になる…。
環境文化の視点へ
インドにおける体験から、国やその土地などによって環境保全の概念も環境意識も何もかもが違うということを思い知らされた。より大きな枠(リンク)の中で自然保護や環境配慮行動を考える必要性を実感した。また、その枠内での絡み合いをじっと見ていると、宗教や民俗習慣の持つ威力と精綴さ、重厚さにあらためて驚いた。
日本文化―巡礼へ
では、自身が育ってきた日本文化というものにおけるこのような絡み合いはどうなっているのかと疑問が沸き、むしろ日本の民俗文化といったものへの興味関心が急速に拡大した。この頃より、自然保護という立場というよりは、むしろ里山の古老の話や、禁忌/タブー、鎮守の杜といった民俗学的な事象への傾倒を深めていった。最近でこそ「環境社会学」「環境民俗学」という概念で語られる範疇にも含まれるが、あらためて日本文化を見ると、そこには洗練されていた保全システムなどが存在していたのである。ちなみに、私が最初の卒論ゼミで提示したテーマは「ニュータウンにおいて“北枕”を気にする人の割合に関する調査」であった…。最終的には、「現代都市における境界概念に関する意味論的考察」という、お化けが生まれる負空間に関するものとなった。
その後は、なぜか四国遍路などに代表される「巡礼」「写し巡礼」に取り憑かれたようになり、誰もいない山中の石仏を求めて放浪したり、講を開くおばあさん達に話を聞くような調査も行い、我流ながら社会学、民俗学的な調査を行った。工学に所属しつつ、学外の巡礼研究家にも積極的に師事したりし、またそれを工学サイドも積極的に受け止めてくれたことは非常に感謝している。
文化論と計画論のはざまで
その後は、インダス文明のモエンジョダロ遺跡、インド聖地巡礼、インカ遺跡、風呂沐浴文化、熊野古道、流域文化などといった地域文化と環境計画を橋渡しするような領域に生息している。最近では、工学の分野というよりは、むしろ考古学や歴史学、地理学などとのつきあいが増えている。
そのようなつきあいの中でむしろ見えてきた立場の差違がある。それは、私が求めているのは、その時代や文化の絡み合いを知りたいだけではなく、むしろ、その絡み合いが持つシステムとしての華麗さ、見事さを抜き出して、今後の環境計画に擦り込みたいというよこしまな視点である。例えば、「巡礼」からは「巡り型イベント」を提案し、「風呂沐浴文化」からは「沐浴都市」というコンセプトを、モエンジョダロにおける排水施設の分析からは「自然のリズムと身体のリズムとの共振をつなぐ都市施設」という位置づけを抽出した。また、コモンズ(共有地)における写し巡礼地の役割の分析から、共有でも私有でもない「共演」という新たな枠組みを提示した。現在では、蛇伝説、河童伝説の分析から河川に対する関係性を抜き出す作業や、インカ遺跡における排水施設と棚田農法との関係、南インドにおけるエコビレッジの位置づけなどに取り組んでいる。
これらを通して、私たち人間社会が自主的にライフスタイルを選び取る可能性を広げたいと考えている。次世紀においては、ライフスタイルの変革が迫られると思う。どのような暮らしを選び取るかというときに、画一的/管理的な暮らしではなく、むしろインド型や巡礼放浪型、芸術追究型といったようなそれこそ多様なライフスタイルを選択する可能性があるべきだと思っている。その際に、どのような暮らしがありうるのかという人間と環境との絡み合いのボキャブラリーをストックしておきたい。今年の卒論で穀物菜食団体について調査したのもそのような意図からである。最後に、「専門は何?」という問いに答えてみよう。
「私の専門は、環境社会システムと言います。歴史や民俗といった社会を研究することで、その中に潜んでいる人間と環境との多種多様な結びつき (ecological diversity both human and biological)を抜き出し、これからの暮らしの中に埋め込もうとしています。」いかがであろうか。う~む。
(『環境科学部 年報 第4号』 2000年3月31日)