かつて旭日旗が掲げられた3つの国を訪れた、80年目の夏 【堀 啓子】
2025年11月28日(金) 02:11更新
社会–生態システム研究室の堀です。3回目の教員コラムは、私が今年の夏に訪れたインドネシア・台湾・韓国の3つの国で、80年前の記憶の断片に触れ、考えたことを書きたいと思います。
今年2025年は言うまでもなく、太平洋戦争の終結から80年目の節目の年です。認める認めない、嘘だ嘘じゃないと、歴史をめぐる奔放な主張の嵐は騒々しいですが、80年前までのある期間、この国が環太平洋諸国に武器を持って乗り込み、現地の社会や人々の暮らしに介入もしくは奪取し、そのことにより多くの人々が傷つき亡くなる結果を招いたことは事実です。80年前が盛んに振り返られたこの節目の夏に、期せずして私は、かの時代に日本占領下にあった3つの国を訪れる機会を得ました。1カ国目はアジア・フィールド実習の引率で訪れたインドネシア、2カ国目は研究出張で向かった台湾、3カ国目は休暇をとって遊びに行った韓国です。メインとなる台湾に関する記述を中心に、この3つの国で個人的に見聞きした“あの時代”に関する事柄と、そこから考えさせられたことについて記します。
導入編:インドネシア
インドネシアでは、ジャワ島西部にあるボゴールにて、ボゴール農科大学に多大なご協力のもと受け入れいただき、本学の学生と現地の学生が共にフィールドワークとグループ発表を行うプログラムを敢行しました。

ボゴール農科大学の歴史を振り返るミュージアムを訪れると、大学の前身となる農業学校は戦前のオランダ植民地時代から始まっていたようでしたが、大学の変遷を示す展示では1940年から1945年の記述がないように見えました。調べてみると、日本が侵攻してから敗戦するまでの1942年から1945年まで、農業学校部門は閉鎖されており、獣医学校部門のみ「Bogōru jūigakkō」と名前を変えて運営されていたとのことで、ここにも日本の影響があったのだなと感じました。
またその後フィールド実習の行き先として訪れたグチ温泉地にて、ひとり散策をしていると、「DIRGAHAYU REPUBLIK INDONESIA Ke80 / 17 Agustus 2025」と書かれた旗が目に入りました。こういう時、アルファベット文字のインドネシア語はなんとなく意味が推測できて便利です。調べてみると思ったとおり、「万歳インドネシア共和国80年 / 2025年8月17日」の意味でした。その時まで意識できていなかったけれど、そりゃあうちが終戦80年なら、日本が占領していた先は(色々な変遷を辿った国はあれど)独立80年だよなと、ある歴史がその相手からは全く別の見え方をするということを、ささやかながら実感できた気がしました。

ちなみに、体力が自慢の私ですがインドネシアでは盛大に胃腸をやられ点滴送りとなり、日本側の学生と教員も半数以上が渡航中に一度は体調を崩してしまい、現地の学生や先生方には大変にお世話になりました。一緒に10日間の紆余曲折を乗り越えたお陰か、フィールド実習のアレンジをしてくれたボゴール農科大学の若手研究者の方とは、今でも折りに触れて連絡を取り合う遠いお友達と言える関係になることができ、私としても得るものが大きい実習になりました。
本編:台湾
台湾には、指導学生の調査の引率と自身の研究に関する視察のために訪れ、主な滞在先は高雄市でしたが、高雄という地名には個人的な思い入れがありました。というのも、私の父方の亡き祖父は、医学生時代に学徒動員で兵隊に取られ、高雄にあった陸軍病院にて軍医として従軍中に敗戦を迎えていたのです。戦中・戦後のことを多く語らなかった祖父について軍歴を取り寄せた父は、祖父が帰国したのは終戦翌年の4月だったことを知り、引き揚げまでの8カ月間現地で何をしていたのだろう、口にはできないようなことをしていたのかもしれない、と気にしていました。そのため父から、もし高雄で時間があれば、高雄陸軍病院の跡地を見に行ってみてほしいと言われ、視察先を色々と紹介してくれる現地の研究者仲間にこの旨を相談してみました。するとなんと高雄の日本統治時代に詳しい歴史学者を紹介してもらうことができ、視察と調査の合間に一緒に街歩きをさせてもらえることになったのです。「歴史学者の方に当時のことを尋ねても大丈夫そうなら、当時の現地の人々の日本人に対する印象や、日本軍が引き揚げるまでの状況を聞いてきてほしい」という父からの宿題も持って、2025年9月に台湾に渡航しました。
本務の現地調査と視察を終え、合流できた張教授はとても優しいご老人でした。台湾の歴史をご専門に大学教授を歴任したのち既に退職されていて、ご両親は日本統治時代の公学校出身で日本語を話されていたそうで、その影響でご自身も美空ひばりや倍賞千恵子の歌がお好き、とのことでした。

張教授は私たちを、高雄市内に残る日本統治時代ゆかりの地にいくつも案内してくれました。残念ながら面影や史跡は全く残っていなかった高雄陸軍病院の跡地や、西本願寺住職の別荘(逍遥園)や日本時代の婦人会館、旧高雄駅舎や剣道場(武徳殿)など、日本式建築が史跡として残されているスポットを巡りました。
その間、張教授は色々な話をしてくれました。日本統治時代、台湾人は公学校・日本人は小学校と分けられていて、台湾人の進学は難しかったけれど、戦争が始まって国民学校に統一されたこと、港のエリアは空襲を受けて失われた日本式の建物も多いこと…など。私からも、父や祖父のこと、祖父が医学生時代の台湾人の同級生との縁を後々まで大切にし、家族ぐるみで関係を築いていたことを伝えました。

日本統治時代から今も剣道場として使われる武徳殿では、“台湾の武蔵”と呼ばれる剣道家の陳先生にお茶をいただき、交流試合等でよく日本にいらしていることをお聞きしました。私にも長く剣道を教える伯父(父の兄)がいると話すと、お父さんも伯父さんも、次はぜひ一緒に高雄にいらっしゃいと、お二人とも口を揃えて言ってくださいました。ちなみに日本に帰国してから、伯父に陳先生のことを話すと、なんと国内の試合で一緒に審判をした経験があるとのことで、世界の狭さと運命の巡り合わせを感じることにもなりました。

帰り際、張教授に日本統治時代の台湾人の日本への印象を聞くと、悪い印象ではなかった、中国人が対戦国として日本に抱いていた敵対心を台湾の現地人は持っておらず、自分の両親も、その後もずっと日本語を話していた、とのことでした。また、終戦後日本軍が高雄から撤退するまでの間何をしていたのか、何かを壊していったりということはなかったか?と尋ねたところ、そういうことはなかった、ただ台湾人に明け渡して帰って行って、陸軍病院もその後も病院として使われていた、と答えてくださいました。その言葉をそのまま、帰国後私は父と伯父に伝えました。
もちろん、日本領だったから受けた空襲もあったし、日本軍に徴兵されて命を落とした台湾人やその遺族の方もいるはずで、現地の方の日本への見方は一概に言えるものではないと思いますし、祖父が実際現地でどう過ごしていたかを知れたわけではありません。であったとしても、張教授のその言葉を聞いた時、あぁよかったという安堵の気持ちを感じずにはいられず、孫の私でこうならば、父のその気持ちはもっと大きかっただろうと思います。この安堵感の元にあるのはきっと、加害側としての罪を意識せずにいられない心情で、それは被害側の悲しみや怒りとは質が違うものだけれど、人を後世にわたり苦しめるものであることは変わらないということを、安堵感の裏返しとして実感しました。
安堵という言葉から思い起こされたのは、平成天皇が最後の誕生日会見で語ったこの一節です。
「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに,心から安堵しています。」
高雄で見聞きしたことと共にこれを反芻しながら、帰路につくこととなりました。
番外編:韓国
ここまで長らくお付き合いいただいていますが、韓国編は長くはなりませんのでご安心を。韓国には休講期間中に休暇を取り、単純に遊びに行きました。韓国人と結婚して現地に住む友人を訪ねるためです。韓国では特に歴史に関するフィールドワークなどはしませんでしたが、民泊のホストをしてくださった沈さんという老夫婦との出会いが印象的でした。
ご主人は1944年生まれの81歳、おそらく少しお若い奥様と二人で、マンションの一室を貸し出す形で民泊を運営されており、3泊大変お世話になりました。大変活発な方で、到着した夜も、韓国らしい朝食をご一緒させてもらう時も、色々とお話をしてくださいました。自分が若いころは兵役に行く先がアメリカ軍で期間も長く辛かったこと、昔はアメリカに入国する前にはキムチは臭うから食べるなと言われたこと、メディアについて教える仕事をしていて世界の様々な国を訪れた経験を本にしていること、などなど。私も自身の仕事や、韓国で訪ねる友人のことなどを話しました。

民泊のホストの方だったので、一緒に過ごした時間は長くはなかったですが、沈さんが私の来訪についてSNSに書いてくれた投稿の結びが、心に響くものでした。
「これまでの日韓の間の重く暗い歴史を乗り越え、両国が未来へ進む道を見出そうという共通認識が形成されつつある過程だと考えられる。ケイコがソウルに滞在する間、多くのものを見て帰り、彼女が教える若い学生たちに韓国の真実の姿について伝えてくれることを願う。」
こうして、アジア3つの国を訪れることとなった、私の2025年夏が終わりました。
インドネシア、台湾、韓国で、日本がかつて行ったことやその意味も、その後の外交関係や日本に関する感情も様々だと思います。だけど、この3つの国を訪れた時、私も学生も現地の方々に温かく迎え入れていただき、とても良くしてもらったという経験は共通していました。次は日本で、同じことを私たちにもさせてねと、お世話になった皆さんに何度も言いました。
日本だけでなく様々な国と地域で、自分のこと、自身の民族のこと、自国のことしか考える余裕がなくなっているような、分断の気配が広がる時代です。これを反転させることは難しいけれど、今の私の立場でできる処方箋が何かあるとすれば、1人でも多くの学生に、海外を訪れ、あるいは異国の客人をお迎えし、出自の異なる人々と交流する機会を提供することだと思います。“外国人”という言葉で一括りにされる人々の中に、具体的な誰かの固有名詞と顔が浮かぶこと、海の向こうへの威勢のいい攻撃的な言葉が飛び交ったとしても、自分が異国の人と笑い合い助けられた経験をありありと思い出せること、それができる人間が多く存在する社会なら、最悪の結末に至るような分断の最後の一歩を踏みとどまれると思うのです。それこそが「戦争は人の心の中で生まれるからこそ、その心の中に平和の砦を築かねばならない」とユネスコ憲章が謳うところの、心の砦に当たるのだろうという実感と、この立場にある者としての覚悟ができた、80年目の私の夏でした。
学生の皆さんを海外にお連れすることは、怖さも大変さも色々とあるけれど、令和も必ず、戦争のない時代として終えないといけませんので、これからも機会ができれば学生の皆さんと世界を架橋するお手伝いをしていきます。
胃腸薬と粉ポカリだけは、忘れずにスーツケースに詰め込んで。 (おしまい)





















