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ヒッチハイク・イン・アリゾナ(前編)【井手慎司】

2022年10月03日(月) 01:30更新

そのとき私は,炎天下の中,アリゾナ砂漠をフリーウェイ沿いにトボトボ歩いていた.

いちおうもう一人,野郎の連れはいるのだが,二人ともやけに無口だ.
無理もない,もうかれこれ 10 km は歩いている.
のどがカラカラだ.が,まだ人家の影すら見あたらない.
もちろん,親指を立てて,ヒッチハイクをしながら歩いてきたのだが……ただの一台も,止まってくれない.たまに出会う車も,二人の日本人の横を,砂埃を舞い上げながら通り過ぎて行くだけだった.

その年(1984年)は,ロサンゼルス(LA)でオリンピックが開催された年だった.日本人の友達が LA のホテル・ニューオータニに就職したのを幸いに,夏休みを利用して(留学先の)テキサス州ヒューストンから LA へ遊びに行く計画を立てたのだ.

ヒューストンからロサンゼルスへは,片道約 2,500 km,ほぼ北米大陸を半分,横断する距離になる.ひとくちに 2,500 km と言ってもピンとこないだろうが,日本ならだいたい,北海道の稚内から九州の鹿児島まで走る距離にあたる.またこれが,ほぼ東西に走ることから,ヒューストンとロサンゼルスでは2時間の「時差」がある.テキサスが Central Time Zone なら,途中のニューメキシコとアリゾナが Mountain Time Zone,そしてカリフォルニアが Western Time Zone だ.地べたを走っているだけなので,この時間が変わるというのは,感覚を説明しにくい.ニューメキシコで立ち寄ったレストランで,壁に掛かった時計の針が,自分の腕時計より1時間遅れているのに気がついて,不思議な気持ちになったのを憶えている.(更にいえば,テキサスは広い.ヒューストンからテキサスの西端のエルパソを抜けて,やっと全走行距離の半分となる.)

ルートとしてはインターステーツと呼ばれるフリーウェイ I-10(アイテン)をひたすら西に向かえばいい.もっとも途中,アリゾナのフェニックスの南で,I-10 は I-8 と分岐する.I-8 をそのまま西進すると,ヤクルトのキャンプ地として名高いユマを抜けてサン・ディエゴに行ってしまう.まっすぐロサンゼルスに向かうには,I-10 と I-8 のジャンクションから,いったんフェニックスに北上して,ふたたび西に進路を取らなければならない.

ちなみに全米を網の目のように結ぶフリーウェイを,州と州(ステーツ)の間を結ぶという意味で「インターステーツ」と呼ぶ.私が知りうる限りでは,その数字が偶数のものが北米を東西に横断する道路であり,奇数のものが南北に縦断する道路のようだ.上で紹介した I-10 はちなみに,西はロサンゼルスを起点に,東はフロリダ半島付け根のジャクソンヴィルを終点としている.

そして悲劇は,I-8 との分岐点から I-10 を北上し,フェニックスに向かっている途中に起こった.

突然,我が愛車 Datsun 210 (ダッツサン・ツーテンと呼ぶ.要するに日産サニー)のボンネットから白い煙が立ちのぼり,エンジンがプスンという音とともに止まってしまった.絵に描いたようなオーバーヒートだ.無理もない,今回の旅,我がポンコツ車はどうも調子が悪かった.ヒューストンを出発して,たった 300 km 走った,サン・アントニオくらいからか,水温計が常に高めだった.おかげで,エアコンをつけたり消したりしながら,ここまでやってきたのだ.

しかたがないので,道ばたに車を移動させ,エンジンが冷えるのを待った.一時間ほど待っただろうか,恐るおそる,エンジンをかけてみた.すると,うれしいことにエンジンが一発でかかったではないか.

――が,車が動かない!エンジンは回っているのに,車がピクリとも動かない.(後で分かったことだが,クラッチ板の締め付けが弛んでいたようだ.クラッチ版が空回りしては,車が動くわけがない.もちろん,それがオーバーヒートの直接の原因だった.)

途方にくれたわれわれ二人は,意を決して,やってきた道を歩いて戻ることにした.「ほんの少し」前に,小さな町を通り過ぎたことを憶えていたからだ.

アメリカでは,砂漠で立ち往生した場合,故障車のそばを離れるな,という鉄則がある.ひとつには,特に,炎天下の砂漠の場合,当てもなくさまよっては,無用の疲弊を招くだけ,遭難する危険すらあるからだ.それに,故障車の側に立っていれば,比較的高い確率で,走行車が止まってくれるという.アメリカでは,ヒッチハイクは,乗るほうも,乗せるほうも,かなり度胸のいる仕事だ.相手がピストルを持っていることが当然の国だから.だから,そうそう簡単にはヒッチハイクできない.とは言うものの,故障車の側に立っている場合は,明らかに災難に会って,困っている状況が一目瞭然だから,乗せてもらいやすいという.

われわれも十分そのことは承知していた.承知していながら,「ほんの少し前に通過した」と信じたばかりに,無謀にも,故障車を離れて歩き始めたのだ.当然,ヒッチハイクさせてくれる車になど,出会えるわけがない.

しかし幸い,十数キロ歩いたところで,目指す小さな町に到着した.さらに幸運にも,日曜日だったにも関わらず,小さな自動車修理工場がやっていたのだ……後は,牽引車を出してもらい,工場まで愛車を引っぱってきてもらった.原因はクラッチ板の緩みだけだったので,修理は,工場の親爺さんが車の下に潜り込んだかと思うと,あっという間に終わった.人のいい親爺さんで,修理代を受け取ろうとしない.汗でボロボロの,みすぼらしい東洋人だと,同情してくれたのだろう.

貧乏旅行だったので,これはありがたかった.歩いている時には,もし修理費がかかりすぎるなら,車を放棄してバスでロサンゼルスに向かおうかとすら考えていたからだ.

笑顔がもどった二人は,元気いっぱい,再びロサンゼルスを目指して出発した……が,走りはじめてすぐに,再び,愛車の異常に気づいた.水温計の針が,信じられないくらいの速さでどんどん上がっていくのだ.

一難去ってまた一難.ロサンゼルスまであと 600 km.
二人の運命やいかに……

後編につづく.

【このコラムは,教員のリレーエッセー特別編として1999年に当時の学部HPに掲載したものを転載したものです.】