【2024年12月】あれからの能登に関わって思うこと【堀 啓子】
2024年12月04日(水) 02:01更新
社会–生態システム研究室の堀です。2回目の教員コラムは、今年私が能登地域と関わってきた中で、考えさせられたことについて書きたいと思います。
改めて説明するまでもなく、能登半島は2024年の元日に地震と津波に見舞われ被災しました。被害の規模や復旧のスピード、支援活動の様相や地域に住み続ける人々の割合は地域によって大きく異なり、地域の現状はそれぞれです。
私は2024年に3回、七尾市内の支援活動に同行させてもらう形で、能登地域を訪れました。私が同行した支援活動は、大学院時代の同期である福知山公立大学の大門准教授が企画するもので、2月から13回にわたる活動(2024年12月時点)の様子は下記サイトの『令和6年能登半島地震 現地活動報告』シリーズで読むことができます。
https://www.fukuchiyama.ac.jp/institutions/bosai/category/activities/
能登地域には、人々が自然を活かしながら千年を超えて形成してきた特有の文化と景観があり、豊かな里山と里海、それを取り巻く人々の暮らしの様式が世界的にも評価され、世界農業遺産にも登録された地域です。私が専門とする人間社会と自然生態系との持続可能な関わり方を考える上でも、以前から能登地域は一つのモデルとして注目されており、私も能登地域を対象とした研究や学生向けの研修を行った経験がありました。だから、あの能登地域が今どんな状況にあるのかを知るために足を運びたい、動こうと思えば動ける状況にある自分は行かなくちゃいけない、そんな気持ちから、支援活動を通じて能登に向かいました。
初回は3月末で、七尾市の避難所の一つが解散となり、自宅に帰れない方々が仮設住宅に移り住む時期でした。支援活動として、仮設住宅への荷物運びや、半壊した家屋の中で散乱した物品の仕分けや処分を手伝いました。2回目の訪問は7月に、学生とともに向かいました。様々な集落から人が移り住む仮設住宅の住人同士や、周辺地域の住人との間に少しでもご近所づきあいやコミュニティができるよう、縁側カフェや福知山のお酒を振る舞うイベントを行いました。3回目は9月で、仮設住宅や、被災した集落の自宅に住む方々を戸別訪問し、見守り活動や困りごとの調査を手伝いました。
これらの活動の中で、とても心に残った、考えさせられたことが2つありました。そのことについて書きたいと思います。
ひとつめは、3月の活動の中で感じたことでした。私達は2軒のお宅に分かれ、散らばった食器や日用品の片付けを手伝いました。壊れていないとっておくものと捨てるものを分けたいという住人の方もいましたが、もう全部捨てていいから、とおっしゃる方もいて、ただどちらのお宅も大きく損壊しており、片付けたのちに取り壊す予定とのことでした。
その翌日、仮設住宅でお手伝いの待機をしていると、仮設住宅に入られる方に声をかけられ、半壊で取り壊す予定の自宅を片付ける際に手伝ってもらうことはできるか、と聞かれました。現地の支援体制を熟知している大門准教授と繋ぎ、福知山公立大学を中心とするボランティアチームでも支援を調整するけれど、現地入りできるタイミングが限られているため、市のボランティアセンターにも支援ニーズの登録をしておくと良いことを伝えました。その中で、市のボランティアセンターではニーズに対して支援が間に合っているとはいえず、今後も住み続ける家の片付け支援が優先であることを知りました。
限られた人手で復興を進めていくため、住むための家の片付けが優先となることも理解できるし、苦労して片づけを手伝った家が住まずに壊されてしまうことに、徒労感のようなものを少しも感じなかったとは言えません。でも、例えもう住めなくても、長年住み慣れた自分の家を壊す前に片付けたいという被災した方々の気持ちがあり、それにも対応する支援チームがありました。この二つの事実のはざまで、私たちが救いたい・救わなければいけないものって何なのだろうか、という問いが、私の中に強く残りました。それはきっと、住む場所があるならそれでいいのか、というような、人が生きるために必要なものとは何なのだろうという、もう一段次元の大きな問いに繋がるように思います。
工学系が出身の私はつい、人が生きる上での“ミニマムニーズ”としての衣食住の物量を設定して、それが維持できるかをマクロな数理モデルでシミュレーション、といったことをしてしまうけれど、ミニマムなニーズが満たされるだけでよい生を送れるほど人間は単純じゃないということを、忘れてはいけないと改めて思わせてくれた出来事でした。それと同時に、ミニマム以上に救うべきニーズがあるとすれば、被災地を取り巻く私たちのこの社会は、取り残しなくそれらに応えることはできるのか、どうすればできるのかということを、答えのないまま考え続けるきっかけとなりました。
ふたつめは7月の出来事です。支援の中で関わりができた現地の方の出身集落で、除蝗祭という行事に参加しました。除蝗祭は虫送りとも呼ばれる、害虫の被害なく豊作を迎えられるよう祈願する小さなお祭りで、私が参加した集落では、燃える松明を持った住人が列をなして、太鼓と鐘を鳴らしながら田んぼの間を練り歩くスタイルでした。松明作りから10名程度の学生らとともに参加し、地域の方と他愛ないお話をしながら、「こんなに長い行列は見たことがない」と言われるくらい、長い列をなして田んぼの間を歩きました。
太鼓を力強く叩いてくれていたのは、その集落出身の若いお兄さんたちで、私たちのことも歓迎してくれました。学生らの一部がその集落の集会場に泊めてもらい、翌朝は草むしりを手伝う予定だと伝えた時、彼らは溌溂とした口調で、私たちにこう言いました。「草むしりより、夏の祭り来てよ祭り!今日うちに泊まった子はみんな参加決定だからね!」と。その言葉がとても切実だったんです。人口や若手が減って、少しずつ規模が小さくなっていく集落の行事やお祭り…そのことに地域のお兄さんたちがどれだけ心を悩ませていて、若い人がどれだけ切実に求められているかが、痛切に感じられた瞬間でした。
能登地域の復興について語られるとき、震災前から能登地域では過疎が進んでいたことから、震災による人口の更なる流出への懸念や、だからこそ震災前より良い状態に復興させていくことの必要性も論じられます。先ほどのお兄さんの言葉から、能登における過疎の深刻さを確かに痛感すると同時に、だけれど私たちもそれぞれ身はひとつで、各々に自分の故郷と盆があり、ましてや能登のすべての集落の祭りを賑わすことはできないという現実を、身をもって感じたのです。であればせめて、出逢った人や地域を、できる形で支える関わりをしていく、ということが私の暫定解ですが、少しずつ縮小し災害で傷を負った能登を、限られたリソースでどう立て直していけるか、そこにどう関わることができるのかを考え続けることが、宿題として私たちに残された気がしました。
このふたつのシーンから残された問いに共通するのは、すでに、そしてこれからますます人手が減る日本社会で、時に災害に見舞われる人々や地域を、どう支えて暮らしを営んでいけばよいか、という大問題の一部であるということです。その処方箋のひとつは、これから世に出ていく貴重な若者たちに、この問題に向き合う心身の体力と真心を育み、ひとりひとりの能力を社会のそれぞれの場所で存分に発揮してもらうことであると思っています。大学はそんな若者を育成する場であると思いますし、私も引き続き、できる形で能登地域に関わり、この問いと向き合っていきます。
災害に見舞われた能登地域のことを自分も考えたい、力になれることを探してみたいという人がいたら、声をかけてください。日本海の強風に吹かれながら、のと里山海道を北上し、一緒に能登へ向かいましょう。 (おしまい)
謝辞:支援活動をゼロから立ち上げ、企画し、参加を歓迎してくれる福知山公立大学チームの皆様には、この場を借りて心からの敬意と感謝を申し上げます。