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インド発、シンクタンク経由、大学着ー私の環境学ー 【村上一真】

2014年05月15日(木) 10:21更新

1. インドから

 私の環境学への目覚め、というよりも、そもそもの研究者志向の芽生えはインドにあります。
 大学3年生が終わった春休み、同級生が就活を始める中、1年間の休学を決め、複数のアルバイトの面接を受けていました。昔の大学は牧歌的で、休学するのに特段の理由はいらず(?)、モラトリアムだなと言われつつ、休学の承認を得た覚えがあります。
 3年生からアジア経済論のゼミに所属していました。世界銀行レポート「東アジアの奇跡」など、アジアの経済発展が注目されていた時代です。実際は、私より一世代以上前に流行した沢木耕太郎「深夜特急」への憧れがありました。インドに関してはビートルズもそうだったな、とも思っていました。大学では音楽をやっていましたが、春休みになるとメンバーが就活を始め、バンドは休止状態になりました。若いうちにインドに行こうと思っていたため、このタイミングを逃すまいと休学したのです。
 友人からは、良く社会復帰できたな、と今でも言われます。インドにはヒッピー的な外国人が多くいました。“沈没”する日本人も多かったようです。私はまじめな旅人で、遺跡やバザールなどを朝から晩までうろついていました。日本での4ヶ月のアルバイトでお金を貯め、ネパール、インド、ベトナム、カンボジアなどを8ヶ月間放浪しました。インドはビザ上限の3ヶ月をかけて一周し、最も長く滞在しました。
 一応、音楽を作れるようにと、録音できるウォークマンとブルースハープを持っていきました。バックパックにギター、という欧米人旅行者もいましたが、いかにも、というのと邪魔だろうと眺めていました。シタールも習うつもりでしたが、結局音楽に関わることは何もしませんでした。日常そのものが刺激的で楽しすぎたからです。
南インドのある町の海岸で、クリケットの練習を見ていた時のことです。日本の中高生くらいの年齢の学生のグループでした。そのうちの一人と、旅中のことなど、とりとめのない話をしていました。どういう流れかはさすがに覚えていませんが、「橋本龍太郎はどう評価されているんだ?」と。そして別れ際に「英語下手だな。教えてやろうか?」と。この2つの言葉が、その後日本に帰って大学院で開発経済学と環境経済学を学ぶスイッチでした。
 話をする中で聡明な子だと感じてはいましたが、インドの片田舎で“Ryutaro Hashimoto~”が出てくること、それへの満足な答えを持ち合わせていないこと、逆にインドの首相の名前を知らないなど、強烈なショックを受けました。途上国を体感して開発経済学を専攻するという流れは、貧困問題を目の当たりにして、というストーリーがすぐに浮かびますが、私の場合は“Ryutaro Hashimoto”のほうが大きかったです。何処でどんなタイミングで学びのきっかけが訪れるか分かりません。寺山修司「書を捨てよ、町へ出よう」の言葉ではありませんが、外に飛び出すことのメリットだと思います。ただ、大学教員としては、書は捨てずにカバンに詰めて、と言いたいところです。放浪帰りの私のバックパックには、書は無くなっていた記憶がありますが。

2. シンクタンクに

 修士課程を修了して民間のシンクタンクに就職しました。環境の部署に所属し、行政や各種団体からの委託研究や、公的な事業を担う企業からの調査研究を行いました。
 大学院で環境経済学も学んだのは、COP3での京都議定書の存在も大きかったのですが、途上国での急速な経済発展に伴う環境悪化や、貧困と環境破壊の悪循環への問題関心が強かったからです。指導教官も現場の問題解決のための研究に注力しており、JICA、JBIC、World Bankなどとの共同研究や事業に携わることができました。
FASID(国際開発機構)のフィールド研修で、2週間ほど、他大学の学生とフィリピンのボホール島に滞在したのも良い経験でした。ホームステイをしながらグループごとに地域の課題を見つけ、調査を行い、解決策を提示するというものでした。調査内容は全く覚えていませんが、空手の型を披露したこと、メールを送受信する必要がありピックアップトラックに乗せててもらい町中心部のインターネットカフェに抜け出したこと、ボールルームダンスを毎夜習わされ、最後にみんなで踊ったことだけを覚えています。
 経済学は効率性基準を絶対とし、資本や労働投入の効果などを数字で評価するだけの机上の学問と捉えられがちです。細分化された分野によってはそのような面があるのは否定しませんが、応用経済学としての開発経済学と環境経済学には、「現実の問題からの出発と解決策の提示という到達」が基本姿勢であるべきと考えています。
文系、理系に関係なく、「問題は会議室(や論文の中)で起こってるんじゃない、現場で起こってるんだ!」(~風)として、自分の眼でみて考えることから始め、最終的には現場の問題解決につなげることが必要だと思います。その意味で、民間シンクタンクを選択したのは自然な流れでした。現場で実際に起こっている問題に対し、処方箋を示す仕事に従事できたのは意義深いものでした。また、ビジネスとして調査研究を行うことは、リピートや他クライアントへの評判につながるため、いかに役に立つ成果を出すかも鍛えられました。
 ただ、あくまでも処方箋を示すまでを仕事の範囲として線引きしました。ビジネスということの制約も大きいのですが、問題の実際の解決は、当事者自身が長い時間をかけて進める必要があるからです。全ての問題に効く万能な薬はありません。問題やその背景などに全く同じものはないからです。開発経済学や環境経済学でも理論と実際の乖離は多くみられ、先進国の成功体験や思い込みに基づく政策の失敗も数多く存在します。外部からの押しつけを反省し、内発的発展やcapacity development、empowermentなどの概念が生まれました。
 彼らの治癒力を踏まえ、問題解決に踏み出せるような研究結果や、インセンティブのある持続的なしくみなどを提案します。そのあとは、処方箋を受け入れるかも含めて、彼らの意志と行動に委ねることになります。旅人よろしく次の場所に向かうのですが、その後の経過はいつも気になるものです。

3. そして大学へ

 シンクタンクは、理論(大学等)と実践(行政、企業等)を結ぶ、知の通訳者あるいは流通加工者だと捉えています。この立ち位置ゆえのネットワークの広がりから、議員や公務員、企業人、起業家に転身したり、大学教員になる研究員も多いです。
 私も最初から大学教員になろうと考えていました。開発経済学や環境経済学という学問の特性から、現場を知らないと“良い”研究ができないと考えたため、シンクタンクで一定期間働くことをまず選択しました。5年間勤めたのち休職し、博士課程を終えて復職し、他のシンクタンクでも勤めたのち、ここに辿り着きました。シンクタンクでの経験やネットワークを活かしたスタイルでの研究を進めていければと考えています。
 シンクタンクでは特定のクライアントがいました。多くが国や自治体です。彼らの問題意識に基づく依頼内容は、社会や住民の問題解決に資するものであるべきですが、それらは常に完全に一致するとは限りません。大学教員としては、社会、住民、未来が直接のクライアントとなるため、そのニーズをいかに汲み取り、いかに役に立つ成果を出していくかが問われます。
 現在は、節電行動を対象とした個人の環境配慮行動の意思決定プロセスに関する研究、サプライチェーンを通じた環境経営の移転・普及に関する研究、企業の震災対応に関する研究、省エネ・創エネ・畜エネビジネス推進などの実践的な環境政策・ビジネスに係る研究を進めています。以前、東北地方某県で森林環境税導入のコンサルティングを行ったこともあり、被災地にも入っています。東日本大震災からの復興に係る研究や活動も当然必要ですが、南海トラフ地震の備えとしての企業のBCPやBCMなどに関する研究にも注力しています。

 彦根で働くことには運命的なものを感じます。私は島根県の海川山しかない田舎で、釣る、泳ぐ、基地を作ることで育ちました。山口県の萩に近く、遠足や初詣で幾度となく松陰神社や松下村塾跡を訪れてきました。吉田松陰は素晴らしい人間で、安政の大獄を行った井伊大老はけしからん、ということを植え付けられてきました。思いがけず彦根で研究を進めることになり、人生は面白いなと感じています。
 大学が終着駅かどうかは分かりません。日本は米国の“リボルビング・ドア”のように、産官学の人材流動は活発ではありません。ただ、官での民間登用も進みつつあり、大学ベンチャーも生まれています。今後、通奏低音として流れる旅人気質が湧き上がってくるかもしれません。
 インドには機会があれば研究やビジネスで訪問したいものです。変わったところ、変わってないところを感じるのが楽しみです。ただ、感染症の下痢(おそらく)のため、2~3日起き上がれなかった貧乏旅行は、さすがに避けようと思います。

(『環境科学部 年報 第18号』 2014年3月31日)